日々の音色とことば

usual tones and words

著作権には相続税を導入すればいいのではないか(東浩紀)

先日書いた話で取り上げたニュース

作り手を“やる気”にさせる著作権とは――島本和彦氏など語る (1/3) - ITmedia News
に関して、批評家の東浩紀さんがコメントを書かれていた。

東浩紀の渦状言論: 著作権とか白田さんとか
http://www.hirokiazuma.com/archives/000364.html
東浩紀の渦状言論: 著作権とか白田さんとか2
http://www.hirokiazuma.com/archives/000365.html

いくつか肯ける部分があり、僕としても整理しきれない部分があったのが解消された感じ。先日、僕は「どこに立って物を言うべきかは定まりきっていない」という風に書いた。そのときに感じたモヤモヤは、実は「ポジション・トーク=当事者トークができなきゃこういう話には参加できないのかなー」ということだったのだ。これは僕がライターという立場だからという特殊なものではなく、きっとみんなに当てはまる話だと思う。ブログでも書いていれば、そこに「著作権」は存在する。今の時代は、誰もが著作権を持つ側の立場になりうる。同時に、他の誰かが作った沢山の著作物のユーザーでもある。

本当はぼくたちはこういうときこそ、著作権は「本来」どうあるべきか、という原理論を行うべきなのです。そして、結果として出てきた結論が実現可能かどうか、クリエイターが損をするか、消費者が損をするか、そんな話はとりあえず二次的なものとして横に措くべきなのです。その水準では、クリエイターのやる気が湧くかとか、コミケが潰れるかとか、そんな当事者トークはすべてどうでもいい。そういう抽象性が知性というものです。

確かに、そうだと思う。著作権についての制度や形などの話ではなく、「じゃあそれって結局なんなの?」と問われたら僕には明確な答えは(いまのところ)出せない。

もう一つ、実はニュースで取り上げられていた島本和彦の発言で、なんか気になっていたものがあった。

「一番考えるのは、ぼくが死んだ後家族はどうするのということ。国から税金の形とか、そういう形で出てくるようになると、クリエイターになってよかったなぁ、と思う」

もちろん、島本和彦自身が家族のことを考えるのは間違っちゃいない。自分が死んだあとにも遺族を食わせていきたい、というのは人の願いとして本道だとは思う。ただ、それなら「カネを残せばいいんじゃね?」と思ってしまうのも、また事実。

この辺の話は、作家の三田誠広あたりのロビイストが展開すると、より生々しくえげつない話になってくる。

「谷崎潤一郎、江戸川乱歩、横山大観などはあと数年で保護期間が切れる。彼らの遺族が受け取る著作権使用料は、それぞれ年間100万円を超える額だ。これらが突然切れるのはショッキングなこと。遺族の権利を守りたいし、それが作家のインセンティブ向上をもたらす」

著作権の保護期間延長問題、権利者側への反論相次ぐ――文化審:ITpro

著作権の本質を考えるならば、それは作った人のものであって、遺族のものじゃない。作家のインセンティヴとか芸術家へのリスペクトという「ポジション・トーク」を切り離すと、「死後50年たった遺族の権利を守りたい」というのは何か不自然な感じがする。

ぼくは著作権には相続税を導入し、遺族への権利の移譲そのものを制限して、何世代かたつと自然にパブリックドメイン化するように制度設計するのがいいのではないかと思う

という東浩紀の発言のほうが、しっくりくる。