日々の音色とことば

usual tones and words

『アンナチュラル』と米津玄師「Lemon」が射抜いた、死と喪失

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(TBS公式ページより)

■取り残された側の物語

 

今日はドラマの話。先日最終回の放送が終わった『アンナチュラル』について。ドラマの筋書きも演出もすごくよかったけれど、何より印象に残ったのは米津玄師が手掛けた主題歌「Lemon」だった。

 


米津玄師 MV「Lemon」

 

観た人はきっと同じ感想を持っていると思うのだけれど、毎回、この「Lemon」いう曲が絶妙のタイミングで流れるのだ。主題歌だからと言ってエンドロールで流れるわけじゃない。1話完結形式で進んでいくドラマ、そのクライマックスのここぞという場面で曲が始まる。

 

夢ならばどれほどよかったでしょう

未だにあなたのことを夢にみる

 

戻らない幸せがあることを

最後にあなたが教えてくれた 

 

 

そう歌われる歌詞の言葉が、登場人物の心情とシンクロして響く。たとえばバイク事故で若くして亡くなった父親と残された母子が描かれる第4話。たとえばいじめによる疎外とその結実が描かれる第7話。『アンナチュラル』は法医学をモチーフにしたドラマなので、毎回、なんらかの死がストーリーの主軸になる。死者の残した手掛かりをもとに謎が究明されるという、ミステリーの王道のフォーマットが用いられている。

 

でも、『アンナチュラル』がユニークなのは、決して事件の解決や真犯人の解明が「辿り着くゴール」として描かれていないこと。もちろん法廷ドラマの側面もあるので、そういった描写は多い。しかし殺人だけでなく事故や病気や火災による死が扱われる話も多く「なぜ殺したのか」という動機の究明が行われることはほとんど無い。むしろ焦点が当てられているのは「取り残された側」の傷や痛み。

 

家族や恋人や友人や、大切な人を突然に亡くしてしまった人たちが否応なしに抱える、とても大きな喪失。「なぜ死んでしまったのか」という答えの出ない問い。胸にあいた巨大な空洞。ドラマでは毎話そこにフォーカスが当てられている。主人公のミコトと中堂も、大切な人を亡くした経験の持ち主だ。

 

ストーリーの中では、ミコトたち法医学者たちの尽力によって、亡くなってしまった人が最後に「どう生きていたのか」が解き明かされる。不条理な死の「意味」が取り戻される。しかし、失われてしまった幸せな過去はもう戻らないーー。

 

その瞬間。

 

米津玄師が「夢ならば、どれほどよかったでしょう」と歌うのだ。

 

■なぜ絶妙なタイミングなのか

 

僕はナタリーで米津玄師にこの曲についてインタビューしているのだけれど、彼自身、ドラマの中でこの曲が流れるタイミングについては強く印象に残っているようだった。

 

natalie.mu

 

──完成したドラマを観て、あのタイミングのよさは強く印象に残ったんじゃないでしょうか。

はい。本当にドンピシャのタイミングで流れるし、自分の個人的な体験から生まれてきたものが、物語となんら矛盾なく流れてくることに対して、不思議な感覚もありますね。確かにドラマのために書いた曲ですけど、同じくらい、もしかしたらそれ以上に自分のための曲でもあるので。でもそれが歌い出しの瞬間から、これだけリンクして流れるという。それは不思議な感覚ですし、どこか普遍的なところにたどり着くことができたんだなっていう証左でもあるなと思いました。

(上記インタビューより引用)

 

 

米津玄師が「個人的な体験から生まれたもの」「自分のための曲でもある」というのは、彼自身が肉親の死という渦中でこの曲を書いたから。ドラマ制作側から「傷付いた人を優しく包み込むようなものにしてほしい」というオーダーを受け、死をテーマに曲を書いている途中で、実際に彼の祖父が亡くなった。そのことが楽曲の制作に大きな影響を与えたと上記のインタビューで彼は語っている。

 

つまり、これは、この曲を書いていたときの米津玄師自身が否応なしに「取り残された側」になった、ということなのだと思う。

 

「大切な人の死」というものが、モチーフでも対象でもなく、突如、一つの動かしようのない事実として目の前に立ち現れた。そこにどう向き合い、どう意味を見つけるのか。そういう体験を経て「Lemon」という曲が生まれたと彼は語っている。

 

 

結果的に今になって思えることですし、こう言うのも変な話かもしれないですけど、じいちゃんが“連れて行ってくれた”ような感覚があるんです。この曲は決して傷付いた人を優しく包み込むようなものにはなってなくて、ただひたすら「あなたの死が悲しい」と歌っている。それは自分がそのとき、人を優しく包み込むような懐の広さがまったく持てなくて、アップダウンの中でしがみついて一点を見つめることに夢中だったので、だからこそ、ものすごく個人的な曲になった。でも自分の作る音楽は「普遍的なものであってほしい」とずっと思っているし、そうやって作った自分の曲を客観的に見たときに「普遍的なものになったな」っていう意識も確かにあって。それは、じいちゃんが死んだということに対して、じいちゃんに作らせてもらった、そこに連れてってもらったのかなって感じもありますね。 

 

「Lemon」の歌詞の最後の一行には、こんなフレーズがある。

 

今でもあなたはわたしの光

 

ドラマの中でも、この一節はとても印象的に響く。ここで歌われる「あなた」という言葉に、それぞれの登場人物にとっての失われてしまった大切な人の姿がオーバーラップするような描かれ方になっている。そして、その構造と全く同じく、この「Lemon」という曲は、誰もが自分にとっての大切な人の喪失と重ねることのできる曲になっている。

 

取り残された側が、どう生きていくか。自分の胸の中にある大事な部分をもぎ取られたかのような体験をした者が、その死という事実にどう向き合い、未来に歩みを進めていくか。脚本を書いた野木亜紀子と米津玄師が共有していたストーリーの「主題」はそういうところにあるのだと思う。

 

絶妙のタイミング、というのはそういうことなんだと思う。

フェスはどこに向かうかーー書評『夏フェス革命』

■フェスをどう語るか

久しぶりにブログ更新。ずいぶん時間があいてしまったけれど、今日はレジーさんの新刊『夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる』について書こうと思う。

 

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

 

昨年12月に刊行されたこの本。前にもツイッターで書いたけれど、読んだ後の最初の印象は「こういうの書こうと思ってた!」だった。


参考文献に『ヒットの崩壊』があり僕の文章が多々引用されているというのもあるけれど、その理由としてはこの本がロック・イン・ジャパン・フェスティバル(以下ロック・イン・ジャパン)を主な題材にしたものだということがすごく大きい。

 

ロック・イン・ジャパンにまつわる言説って、その動員数や規模や存在感に比べるととても少ないのです。今の日本の「フェス文化」の起点は1997年のフジロックの初開催にあり、そこから00年までの3年間にライジング・サン、サマーソニック、ロック・イン・ジャパンと現在まで続く「4大フェス」が初開催されて広がった、という言説は一般的に広まっている。しかし、本書のように「フェス文化を象徴するロック・イン・ジャパン」という論を書籍ベースで展開するものはほとんどない。

 

その理由は端的にあって、それはおそらく音楽にまつわる書き手の多くが「行ってない/取材してない」ということもその一因なのではないかと思う。本書で引用されている『フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて』で著者の「南兵衛@鈴木幸一」さんが書いている一節がとても象徴的。

 

ロック・イン・ジャパン
2000年8月12日13日茨城県ひたちなか市国営ひたち海浜公園で初開催。その名が二重に示すように、雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」を編集発行する株式会社ロッキング・オンの事業として、さらに日本の国内アーティストのみによるラインナップで開催を重ねる。すいません、著者は全く未見です。

( 『フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて』より引用)

  

フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて (マーブルブックス)

フェスティバル・ライフ―僕がみた日本の野外フェス10年のすべて (マーブルブックス)

 

 

「すいません、著者は全く未見です」って書いちゃうんだ!という驚きは正直あるけど、それはさておき、この一節はとても象徴的な意味を持っていると僕は思う。そのフレーズは「フェスは体験者の言説として語られる(べき)ものだ」という無意識の前提を含有している。

 

そして、フジロックに毎年行くようなタイプの書き手は、小規模な野外フェスやキャンプやレイヴに足を運ぶことはあれ、ロック・イン・ジャパンに足を運ぶことは少ない。たとえばさまざまなフェスのオーガナイザーへの取材をまとめた『野外フェスのつくり方』という本には「プライベートな野外パーティから大規模野外フェスまでを網羅!」というキャッチフレーズがあるけれど、そこではロック・イン・ジャパンのことはスルーされている。

 

(フジロックを主催するスマッシュやサマーソニックを主催するクリエイティブマンと違って、メディア企業であるロッキング・オンとその社長の渋谷陽一氏が「オーガナイザーとしてのスタンスやフェスの設計を語る取材」をほぼ受けていないというのもあると思う)

 

野外フェスのつくり方

野外フェスのつくり方

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また、『夏フェス革命』でもたびたび引用されている『ロックフェスの社会学』という本は書き手の目線で書ききるというよりフェス参加者への聞き取りからもとに論が組み立てられていて、そこからとても興味深いロジックが展開していく名著だと思うのだけれど、そこで取り扱われているフェスもフジロックが中心になっている。

 

 

ロックフェスの社会学:個人化社会における祝祭をめぐって (叢書 現代社会のフロンティア)

ロックフェスの社会学:個人化社会における祝祭をめぐって (叢書 現代社会のフロンティア)

 

 
ただ、ロック・イン・ジャパンは、フジロックとも、サマソニとも、ライジングサンとも、その他の数々の邦楽系ロックフェスともちょっと違う独自の力学で動いているフェスだと思うのです。そして、そこに毎年集まるお客さんたちからは、他の場所にはない独自の文化圏が立ち上がっている。僕は「ロッキン文化圏」という言葉を使って前にこのブログに書きました。

 

shiba710.hateblo.jp

 

『夏フェス革命』のレジーさんはその「文化圏」の形成とその変容をつぶさに見てきた書き手で、それは彼が2012年からブログに書いてきた「ロックインジャパンについての雑記」にも表れている。

 

そもそも音楽に大して関心のない人たちが紛れ込んでるんじゃないかと思います。これは00年当初とは決定的に違う。

 (レジーのブログ「ロックインジャパンについての雑記1 -RIJF今昔物語」より引用)

 

blog.livedoor.jp

 

その体験をベースに、「メーカーやコンサルティングファームで事業戦略や新規事業・新商品開発、マーケティング全般に関わる仕事に従事している」という著者が、ある種フラットな視線でフェスを語ったのがこの一冊。

 

ステージの上のアーティストが主役だった時代から参加者が主役になった10数年の(ロッキン文化圏を中心にした)フェス文化の変化を、「協奏」(共創)というビジネス的なキーワードで語る一冊になっている。


■プラットフォームとしてのフェスの権力構造

 

「協奏」(共創)については、著者インタビューでこんな風に語られている。

 

ここ数年、ビジネスの分野で「共創」という概念がよく言われるようになっているんですが、本書で掲げた「協奏」という考え方はこの「共創」を下敷きにしています。「共創」というのは文字通り「企業とユーザーが共に価値を創る」ということなんですが、もう少し紐解くと、企業が「私たちが素晴らしいと思うものを作ったから、ぜひ買ってください」もしくは「あなたたちはこんなものが好きだということが調査でわかりました。それを作ったので買ってください」と一方的に投げかけるのではなくて、ユーザーの意見や行動をタイムリーに取り入れながらそのビジネスのいちばん良いやり方を作っていく、ということになると思います。

――それは、マーケティングの世界では、割と一般的な概念なのでしょうか?

本の中でも挙げているのですが、日本で2010年に出版されたフィリップ・コトラーの『コトラーのマーケティング3.0』(朝日新聞出版)で「共創」という概念が提唱されています。その後、ソーシャルメディアが浸透していくにつれて、だんだん具体的な施策としても形になってきているように思います。ただ、「共創」を掲げている企業の多くが「共創のための場」を人工的に作って、そこで人を交流させたり、商品開発のための意見交換をさせたり、というレベルで終わっているように感じます。それが本当に何か意味のある取り組みになっているんだろうか、というのは常々疑問に感じる部分もあって。

(realsound「“フェス”を通して見る、音楽と社会の未来とは? 『夏フェス革命』著者インタビュー」より引用)

 

realsound.jp

 

おそらく20年後、30年後から今の2010年代を振り返るならば、それは「ソーシャルメディアが社会を変えた10年」ということになるのだと思う。フェスを軸に考えると、音楽を巡る場の変化が社会の変化と密接に絡み合っていた流れがすごく見えてくる。

 

ツイッターが浸透し、スマートフォンが普及し、「現場で体感するもの」としてのエンタテインメントが大きく支持を伸ばしていった。もちろん、2011年の東日本大震災も大きな影響もあった。

 

ただその一方で、サッカー日本代表戦後の渋谷スクランブル交差点が象徴するように、「本来のコンテンツそのものとは関係ないところで、参加者が“おそろいの服を着て騒ぐ”のが楽しい」というような構造も現出した。また、過去にこのブログで書いたように、そして本書でも書かれているように、日本においてハロウィンがキャズムを超えたのは2012年。それも本来のハロウィンの由来とは関係ないところで出現した、「新しい都市型の土着の祭り」だったのだと思う。

 

shiba710.hateblo.jp

 

そういう変化をつぶさに見て取れる一冊になっている。

 

個人的に最も刺激を感じたのは「おわりに」に書かれた部分。クラシック音楽の聴かれ方について書いた名著『聴衆の誕生』をひきつつ、18世紀の演奏会と21世紀初頭のロックフェスの風景を「社交の場、異性の視線、音楽に一生懸命耳を傾けようとする者との混在」という構造は同じだ、と位置づける。

 

もう一方では、フェスを「プラットフォーム」として捉え、そこにある権力構造を見出す。

 

フェスのタイムテーブルがヒットチャート替わりだとすると、フェスに出演しないということはすなわち「圏外」の存在であることを意味する。ということはつまり、フェスはブッキングパワーを駆使して特定のアーティストを「圏外」に追いやることができるのである。

(『夏フェス革命』より引用) 

 
このあたりは、アーティストにも「自分たちが主宰するフェスを立ち上げる」という選択肢があり、それが実際に各地で成功を収めていることからも、GoogleやamazonやFacebookなどのグローバルなプラットフォームと同列に「プラットフォーマーが強くなりすぎる問題」として語るのは慎重になるべきかも、という気がする。

 

■2018年のフェスの風景はどうなるのか


2018年はフジロックにケンドリック・ラマーとN.E.R.Dがヘッドライナーとして出演することが発表されている。先日には第2弾出演者が発表され、サカナクション、BRAHMAN、マキシマムザホルモン、ユニコーン、Suchmosら日本のアーティストが多く名を連ねた。

 

realsound.jp

 

一方、サマーソニックはベック、ノエル・ギャラガー、チャンス・ザ・ラッパーらを第1弾出演者として発表。現時点では第4弾までアナウンスされ、ソニックマニアにはフライング・ロータスの主宰レーベル・Brainfeederとのコラボレーションステージが登場することがアナウンスされている。

 

realsound.jp

 

www.barks.jp

 

ロック・イン・ジャパンの出演アーティストはこの記事を書いている時点ではまだ発表されていないが、昨年にヘッドライナーをつとめたB'z、桑田佳祐、サカナクション、RADWIMPSという並びを考えても、よりマスに訴える力を持ったアーティストがヘッドライナーをつとめるのではないかと思っている。
(個人的な勝手な予想では星野源と米津玄師が有力なのではないかと思う)

 

ただ、フェスを巡る言説自体も、5年前と今とでは徐々に変わってきている。このあたりの変化はまだ肌感覚でしか感じ取っていないものだけれど、おそらく、今年の夏あたりから顕在化していくような予感もする。

 

 

 

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

夏フェス革命 ー音楽が変わる、社会が変わるー

 

 

「笑ってはいけない」と「笑えない」ということの話

 

今日は「笑ってはいけない」の話。

 

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年明けから物議を醸しているけれど、人権とか差別とか、そういう話は置いておいて、あれを観て感じた、今の時代に「笑える」と「笑えない」の基準が変わりつつあるんじゃないかという話。

 

 

年末恒例のお笑い番組「笑ってはいけない」シリーズは、今年は『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』。僕はいつも紅白歌合戦を観ているのでリアルタイムで観てはいないのだけど、後日放映された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』で総集編をちょっと観た。

 

www.happyon.jp

 

正直言うと、少しも笑えなかった。

 

前から嫌いだったというわけじゃない。10年前くらいはずいぶん好きで観てた記憶がある。「笑ってはいけない警察24時!」とか「笑ってはいけない病院24時!」とか。「板尾の嫁」みたいな名物キャラクターにゲラゲラ笑ってた。でも、久しぶりに見たら、なんか、いい大人がケツを叩かれたり蹴られたりしているのを見て「あれ? なんでこの絵を見て笑えてたんだろう?」と思ってしまった。昭和のお笑いを見てるような気持ち。

 

あれだ。『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』を再放送で観たときの感覚と近いかもしれない。

 

ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!DVD-BOX

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あれも子供のころは大好きだった。でも久々に観た番組は「あれ? なんでこれ面白かったんだっけ?」だった。「リアクション芸」という言葉があるのはわかる。芸人たちが身体を張っているのもおもしろい。でも、罰ゲームと称して人がひどい目にあっている様子そのものに冷めるというか、それを見世物として提供している制作側の視線を感じて笑えなくなった。多くの人が指摘していることだけど、やっぱりこれ、いじめの構造だよね。

 

時代が変わったのだろうか。僕の感覚が加齢で変わったのだろうか。

 

後者の可能性もある。『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』は、視聴率的には17.3%ということでかなりの好成績だったらしいし。

 

でも、やっぱり時代が変わったのも大きいと思う。何が笑えるか、何がおもしろいか。その基準が変わってきたのだと思う。

 

■海外に問題が広がった「ブラックフェイス」

 

『笑ってはいけない』では、番組内でダウンタウンの浜田雅功がエディー・マーフィに扮して肌を黒くメイクしたことが物議を醸している。

 

www.huffingtonpost.jp

問題はBBCやニューヨーク・タイムズが報じるなど海外にも広まった。

 

www.bbc.com

www.nytimes.com

 

ベッキーに「不倫の禊だ」ということでタイの格闘家がサプライズで蹴りを入れるシーンもあった。それを周りの男性芸人たちが笑いながら見ているというシーンも問題になった。

 

news.yahoo.co.jp

togetter.com

僕としては、今の時代の文脈に即して言えば、ブラックフェイスはもはや人種差別的表現にあたると思う。ベッキーにキックをしたのも、やっぱりいじめの構造だと思う。

 

ただ、僕は別に番組を糾弾したいわけじゃない。じゃあココリコ田中が蹴られるのはいいのか、とかそういうことじゃない。

 

「海外に比べて日本は〜」という話にしてしまうのも一面的だと思う。たとえばオーストラリア出身のお笑い芸人、チャド・マレーンが「笑ってはいけない」シリーズが海外で大人気になっているという話を書いていたりもする。

 

president.jp

 

僕が考えているのは「笑えるかどうか」ということ。笑えるってなんだろう。おもしろいってなんだろう。

 

■誰かを「いじる」ことはもう笑えない

 

少し前、アメリカ在住の作家/コラムニスト、渡辺由佳里さんが「なぜ『童貞』を笑いのネタにしてはいけないのか?」ということを書いていた。

 

cakes.mu

ブロガー/作家のはあちゅうさんが「#MeToo」ムーブメントの広がりと共に過去に岸勇希さんから受けたセクハラとパワハラを告発したことに関して、その一方、自身は「童貞いじり」のツイートやコラムを書いていたことへの考察。すごく参考になる意見だった。以下、引用。

 

多くの「セクハラ」は認識不足から起こる。

やっているほうは、「なぜやってはいけないのか?」を理解していないから、非常に無邪気なのだ。

ゆえに、「ささやかな冗談なのに、それがわからないのはつまんない奴だな」という反応や、擁護が起こる。だから、何度も無邪気なセクハラが繰り返される。

やっているほうは無邪気でも、そのためにイヤな思いをする者にとっては、もしかすると一生の心の傷になるかもしれないのだ。

 

「童貞いじり」をネタにするほうは「でも、私は見下していない。かえって愛情を抱いている」という言い訳をするかもしれない。「そのくらい笑い飛ばせなくてどうする?」と言う人もいるだろう。

 

だけど、愛があれば、処女いじりやゲイいじりもOKだろうか。そうではないことは、置き換えればわかるはずだ。

 

「笑い」は、いじめやハラスメントと隣り合っている。それはれっきとした事実。少なくともかつてはそうだった。「愛があるからOK」なんて擁護がされたりもした。

 

でも、やっぱり時代は変わりつつある。誰かを「いじる」ことは急速に「笑ってはいけない」ことに、そして「笑えない」ことになってきている。

 

昨年に30周年記念で復活したフジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした。』の保毛田保毛男がいい例だろう。あれはLGBTだったけれど、ああいう風にマイノリティーを見た目や行動で「いじる」という芸は、どんどん笑えなくなってきている。騒がれて問題になるからとか、最近は表現規制が厳しいからとか、そういうことではなくて。デブもハゲもそうで、とにかく「変わっている」ということを指摘して笑いにつなげるような作法の有効性が減ってきている。

 

つまりこれ、時代が変わって人々の生き方の多様性が増えているゆえに、「普通と違う」ということを指摘することの「おもしろさ」がどんどん減ってきているということだと思う。

 

だた、かつてそういうことを「おもしろい」と思っていた側、つまり共同体のマジョリティ側に居てそこから外れたマイノリティを笑っていた側は、「そんなこと、今はおもしろくないよ」とか「許されないよ」と言われると、「おもしろさ」が奪われたように感じてしまうのだと思う。そのことで「面倒くさい」とか「窮屈な時代になった」とか「ポリコレ棒が〜」と反発しているという側面もあるのだと思う。

 

でも、やっぱり僕は、誰かを「いじる」ことはもう笑えないと思うのだ。少なくとも、もっと他に笑えること、おもしろいことは沢山ある。

 

なので荻上チキさんが「保毛田保毛男」問題に絡めて、こういう風に言っているのはすごく同意。

 

それこそ飲み会の場とかで公然と人の身体性とかをいじったり、その人の属性とか、あと過去の生き方とか、そうしたことを公然といじって笑いに変えるってクソつまらないと思います。飲み会の雰囲気としても。それよりも、もっといろいろと楽しさってあるじゃないですか。その中で、なんでよりによってそれを選ぶんだ?っていうものがあって。というようなことは常々思っている。

 

www.tbsradio.jp

 

■「キレイだ」が象徴する新しいおもしろさ

 

 

でも、お笑い番組の側だって進化している。僕はそう思う。

 

少なくとも日本のお笑いの「コード」はここ数年で目に見えて変わってきている。たとえばそれを象徴するのが渡辺直美やブルゾンちえみの活躍だと思う。ゆりやんレトリィバァだってそうだよね。

 

彼女たちは身体性やルックスを自虐的にネタにするようなこともない。周りからいじられることもない。少なくとも僕は先輩のお笑い芸人たちが彼女たちの体型や容姿を「いじって」笑いに変えようとするようなシーンを見たことがない。そうしようとするほうが「サムい」という感覚は急速に広まりつつある。

 

なので、駒崎弘樹さんが上で紹介した『笑ってはいけない』についての批判記事で書いた以下のくだりは、明確にズレていると思うのです。

 

 

 「何を無粋なことを。そんなこと言ってたら、お笑い番組なんて作れないよ」という声が聞こえてきそうです。

 本当にそうだろうか。

 人権に配慮した笑いって、本当につくれないんでしょうか。

 差別やイジメでしか、我々は笑えないんでしょうか。

 だったらお笑い番組なんて、要らないよ、と個人的には思います。

 

news.yahoo.co.jp

 

「そんなこと言ってたらお笑い番組なんて作れないよ」なんてことを思っている制作スタッフなんて、今の時代、きっといないと思います。少なくとも、誰かを「いじる」ことで笑えなくなった時代に、新しい笑い、新しい「おもしろさ」を探る動きは沢山ある。

 

『M-1グランプリ』を筆頭に多くの特番が放送される年末から正月にかけては日本のお笑いの「コード」が更新される時期だと思っているのだけれど、やっぱり今年も印象的だったのは、去年にブルゾンちえみを世に送り出した『おもしろ荘』だった。

 

www.happyon.jp

 

元日の深夜、年越しの『笑ってはいけない』が終わった後に日本テレビ系で放送される恒例の番組。売り出し中の新人が多数出演する『おもしろ荘』で今年1位となったのはレインボーというコンビだった。

 

彼らが披露したのは、実方孝生が演じるキザな「ひやまくん」と、女装した池田直人が演じる「みゆきさん」の二人が織り成す“ドラマティックコント”。これが不思議なおもしろさだった。

 

実方がキメ台詞「キレイだ」を連呼していくうちに、だんだん笑いが生まれていく。最初に見たときは笑いながら「なんなんだこれ」と思ってたけど、その後に内村光良司会の『UWASAのネタ』でもう一度ネタを見てやっぱりおもしろくて、こりゃブレイクするなと思った。でも、コントの筋書き自体はよくある恋愛ドラマを模したものなので、文字起こしを書いてもちっともそのおもしろさは伝わらない。

 

レインボーの「キレイだ」は何がおもしろいんだろう。言い方か。顔芸か。女装した相方をひたすら褒めていることか。

 

今はよくわからない。ただ、番組に出ていた相方の欠点を「いじる」タイプの他のコンビがそこまで跳ねない一方、彼らがブレイクしていくのが2018年という時代なのだと思う。

 

誰かを「いじる」ことで笑えなくなりつつある時代に、やっぱり、新しい「おもしろさ」は生まれていると思うのです。