日々の音色とことば

usual tones and words

悪意を管理する、ということ

最近気になっていることについて。

女子高生自殺:ネットの「死ね」にショック、初欠席のすえ - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/seibu/photo/news/20080601sog00m040004000c.html

ネット規制よりもユーザーによる制裁を - 池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a7b197c6b00ce84d23a5055add588cbc

シロクマ日報 > 「死ねばいいのに」 : ITmedia オルタナティブ・ブログ
http://blogs.itmedia.co.jp/akihito/2008/06/post-cd50.html



すべての言葉は、言霊だ。

少なくとも、僕はそう信じている。声に出した言葉は、まわりまわって現実になんらかの影響を与える。よい言葉を発すればよいことが起こり、不吉な言葉を発すれば凶事が起こる。科学的には何ら証明されたことではないけれど、古代から日本や世界中の国々でそう信じられてきたというだけで、根拠としては充分だ。

だからこそ、ブログのコメントやソーシャルブックマークで他人に対して「死ねばいいのに」などという言葉を発することは、僕には恐ろしくて到底できない。もともとはお笑い芸人が使っていた言葉だというけれど、「冗談」と「呪詛」の境目は、とても曖昧だ。そして、それを決めるのは言葉の話し手や書き手ではなく、受け手である。

さらに、ネットでのコミュニケーションは容易に“悪意”を可視化させる。ブログの炎上がいい例で、そういえば、最近もこんなことがあった。

アニメの特別番組で失言? 「よゐこ」有野晋哉のブログが大炎上。 Narinari.com
http://www.narinari.com/Nd/2008069546.html?xml

以前なら、それぞれの視聴者がテレビの前で舌打ちしたり、もしくはもう少し踏み込んでもテレビ局でクレームの電話が鳴っていただけで済んでいたくらいの問題だろう。しかしブログのコメント欄や匿名掲示板の存在によって「不快感の表明」へのコストが大きく下がった。そのせいで、一人一人がちょっとした舌打ちのような気持ちで発した不快感が、まるで雪玉が山を転がり落ちるように巨大化し、雪崩となる。

ただし、上でも書かれているように、システムや権力による規制がうまく働くかどうかは、ちょっとよくわからない。繰り返しになるけれど、冗談と悪意の境目はとても曖昧で、それを判断するのは書き手の側、プロバイダやサービス提供者ではない。

僕が願うのは、自分が発した「不快感」や「悪意」が、まるでブーメランのようにまわりまわって自分自身に戻ってくるというようなイメージを、多くの人たちが持ってくれればいいのにな、ということ。特にネットでは、なおさらだ。書き込みの送信ボタンをクリックする前に、不快感の表明が実は高いコストを伴うものであるということを、特に子供たちが気付いていくといいと思う。

僕自身は、“ユーザーひとりひとりの意識”などというものは、こういった一つ一つの問題が可視化するたびに、高まっていくだろうと思っている。楽観的だし、根拠もないけれど、これも一つの言魂。